TOP >> WEBコンテンツ >> 全国映画よもやま話 >> 震災から5年映画館のちからは



全国映画よもやま話

震災から5年 映画館の力は

2016年3月18日 北海道新聞 朝刊

 

震災から5年 映画館の力は

 

札幌・シアターキノで報告会

 
 東日本大震災から5年を機に、札幌市中央区の映画館シアターキノなどは「映画で考える、3・11からの5年」を企画、14日には被災地の映画館支配人を招いた報告会を同館で開いた。被災地で無料巡回上映を続けてきた岩手県宮古市のみやこシネマリーンの櫛桁一則(くしげたかずのり)支配人(43)と、原発や放射線被害の問題に関する映画を多数上映してきた福島市内のフォーラム福島の阿部泰宏支配人(53)だ。両支配人に、震災後の活動や映画に寄せる思いについて聞いた。

(中村公美)

 

無料巡回で笑顔届ける

みやこシネマリーン 櫛桁一則支配人

 櫛桁支配人が映画の巡回上映を始めたのは、震災間もない2011年5月7日。宮古市田老地区の避難所を皮切りに、今月10日までに、岩手県沿岸の13市町村で381回の映画の無料巡回上映を行ってきた。

 映画館自体は大きな被害もなく、周囲から上映を望む声も多かったため、震災2週間後に再開していた。だが、「当然ですが例年の同時期に比べ、観客は半分くらい。映画を見たくても、劇場に来ることもできない人も多いのでは。来られないなら、こちらから届けよう」と考えた。

 「あのころはテレビもCMが減少し、自粛ムード一色。こんな時に映画なんて、とも思った。だけど映画を見ている時間だけでも、つらすぎる現実を忘れてほしいという願いがあった」と振り返る。最初の3カ月は避難所の集会所を中心に巡回。スクリーンを見つめる子供、大人ともに笑顔がはじけたという。

 それでも、「家族を亡くした人、家が津波で流された人など過酷な経験をした人が多い。当時は笑ってはいけないような雰囲気がまちには漂っていた」。だが同年6月、「男はつらいよ 柴又慕情」を上映すると、お年寄りから「やっと笑うことができたよ」と声をかけられ、勇気づけられた。

 1972年、岩手県久慈市生まれ。映画が大好きな少年だった。中学生のころ、町で唯一の映画館が閉館し、「なくなって初めて、日常から離れ、同じ空間で同じ時間を過ごしながら、多くの人が感動できる映画館という場の大切さを知った」。設計士を経て05年から現職を務める。

 震災後は巡回上映のほか、ワークショップや映画祭など多彩な企画に取り組む。こうした被災地に映画を届ける取り組みが評価され、今年1月には毎日映画コンクール特別賞を受賞。「活動は全国の個人や企業が寄付を寄せてくれたおかげで継続できた。多くの人が支えてくれた。自分の力ではない」と語る。

 震災から5年。仮設住宅の集会所を中心に、今も巡回上映会は続けているが、ボランティアや資金の確保など課題は多い。活動母体であるシネマリーンの観客数は人口減もあり、震災前に戻らぬまま。

 「巡回上映会の開催は人々の交流の場をつくることでもある。仮設住宅から災害公営住宅への移住が本格化し、心の復興が大切になる中、こうした活動はますます重要になるはず」と継続に力を注ぐ。

 

原発関連 延べ60本上映

フォーラム福島 阿部泰宏支配人

 阿部支配人は「福島第1原発の事故で、非日常が日常になった」と話す。地震で同館の機材の一部は壊れたが、数日後には再開する予定だった。だが原発事故で先の見えない状況に。「皆が不安に包まれていた。娯楽関係の施設が営業できる雰囲気ではなかった」

 結局、再開は約3週間後の4月2日。人気アニメを目当てに多くの家族連れが訪れ、「上映してくれてありがとう」の声に励まされた。だが素直に喜べなかった。「まだ放射線量が高い状況で、お客さんを映画館に呼ぶことに葛藤があった」

 悩む日々が続いたが、2011年6月から「映画から原発を考える」などの企画を始めた。原発事故が起きた福島の映画館だからこそ、原発に関する映画を上映するべきだと考えたのだ。これまで原発関連の映画を延べ60本上映。「政府が原発事故についてきちんと説明しない中、福島の人たちは情報を欲しがっていた。特に震災の年は考えられないほどの観客が集まった」という。

 一方、心の支えになったのは、劇映画「パリ、テキサス」や「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」など傑作ドキュメンタリーで知られるビム・ベンダース監督との出会いだ。震災直後、国内外の監督らにメッセージを求め、メールを送ったところ、ベンダース監督から「新作を持って福島に行きます」と返事が来た。11年10月、ベンダース監督は本当に福島を訪れ、阿部支配人と被災地を歩いた。

 ベンダース監督は同館で「Pina/ピナ・バウシュ」を上映後、観客に「私は何ができるのか、どうか教えてください」と訴えた。

 「芸術家が私たちと同じ目線に立ち、人間として語りかける言葉に心を打たれた」と話す。「彼は『皆さんは、原発事故のことを伝える義務があります』とも言った。その言葉を聞いた多くの人が、(原発事故を)語り継ぐための活動を始めたのです」

 1963年、福島市生まれ。大学卒業後、81年に同映画館を運営する「フォーラムネットワーク」(山形市)に入社。以来、ずっと映画に関わり続けてきた。昨年から、ようやく平常心で映画を見られるようになった。「今も福島では、放射線の影響や自主避難の是非などは話題にしにくい。“同調圧力”が強い状況の中、映画が不安を代弁してくれたという声は多い。映画にはこうした力がある。だからこそ自分はこれからも良質な作品を世の中に送り続けたい」と話す。

 

「仲間として応援」 シアターキノ中島洋代表

 14日夜にシアターキノで開かれた報告会には、市民ら約40人が訪れた。みやこシネマリーンの櫛桁支配人は、延べ1万5千人超が鑑賞した無料巡回上映など、5年間の活動を報告。フォーラム福島の阿部支配人は福島第1原発事故が今も地域に影を落としている現実を語った。

 シアターキノは震災直後から募金などで被災地支援を続けており、中島洋代表(66)は「5年が過ぎたが、これからも映画を愛する仲間として応援したい」と話す。同映画館で引き続き募金を呼びかけるとともに、節目ごとに震災を考える映画を上映する予定だ。